嬉しいお客様
今日、岐阜からお客様が来られました。
夫のプレマとインド21日間コースで知り合ったという、
お仲間の一人のSさん(男性)とお友達のKさん(女性)です。

私はSさんとは今年の3月、お電話でお話をしましたが、
お会いするのは初めてでした。
プレマからSさんのことは少し聞いていました。
Sさんは人のヒーリングを長年されていらっしゃる方で、
ケーシー・リーディングの流れを継がれている、過去世
もみられる方です。
しかしながら、当院の関西の患者様ご家族様も、
Sさんのセッションを受けられていたことが、
Sさんが来られる少し前に発覚したのです。
それらも全て、プレゼンスの計画であると私は感じていました。

Sさんは、お越しになられて、
瞬時に私の内側にご自分と類似の要素があると
感じられたようです。

私の方はというと、Sさんと、プレマの過去世が流れこんで
きていました。
2人が長テーブルを30人ほどで囲んで、激論をぶつけあっているビジョンが入ってきました。
そのときのSさんは、白髪の長髪で年齢的には、
50代くらいでしょうか?(今回の生では年齢不詳です。<苦笑>)
ものすごく目が印象的です。
同じくヴィジョンに映し出されたプレマは
20代くらいです。金髪に近い茶色の髪をしていました。
どうやら医療・哲学・神学などの権威たちが終結し、
ソクラテス哲学をベースとした、宇宙的理論について、
定期的学集会・意見交換会を開いている場面であったようです。
ですから今から200年位前のことだと思います。
場所は、室内なのではっきりはしませんが、ギリシャかドイツ
だと思います。

私は過去世については普段、必要なときしか受け取りません。
意識して人や動物にフォーカスしても、
過去世も何百、何千とありますから、
扉が開いていないものに関しては、
こじあけることはできません。
「どうぞ、どうぞみて下さい」と全開になっている
ものしか、受け取らないようにしているのです。
ですから、コミュニケーションでは、過去世を彼らの
潜在意識が「どうしても伝えておきたいから」ということで、
伝えてくる以外に解説することはありません。
一方、ディクシャでは、そのときに応じて必要なメッセージ
の中で過去世ヴィジョンやメッセージを受け取ることがあります。
けれども、それは対話形式ではないため、「このヴィジョンは
どういう意味ですか?」という確認はできません。
それをご承知頂いた方のみに、必要に応じて解説をさせて頂いている
だけです。
ですが、今回はむこうから飛び込んできたヴィジョンだったので、
私は笑うしかありませんでした。

私が2人の過去世を感じているとき、
本当にSさんと、プレマはプレゼンスに関して、
激論を展開し始めました。
Sさんは、どちらかというと私のように感覚人間です。
(正確に言うと今生では・・・なのですが<笑>)
一緒に来られたKさんも、そして私もSさんと同じカラー
をもっているために、プレマの方が分が悪くなって
しまっていました。

Sさんに、プレマはあることを促されていました。
男性にはよくあることですが、自分が諭すことには喜びを感じ
られても、諭される側に回ると、反論したり、聞きたくないと
思うことはあると思います。

普段、男性は大人になって、ある程度の社会的ポジションを得れば、誰かに何かを「もっとこうした方がいいよ」といわれる機会を失っていきます。私の母はこれを「最ももったいないこと」と表現しています。(私の母はプレマ以上の理論派です。けれども、もともとスピリチュアルな才能は私以上にもっている人でもあります。彼女は今生でその能力を全く使用しないことを選択しました。私は、母のマインドに囚われることから、逃げることばかり考えていました。それでも、彼女のプレゼンスは、私とも繋がっていて、幼い頃から、50回に1回くらい出てくる彼女のマインドではない言葉に、私はプレゼンスを感じてきたのです。)

もしそこに、マインドが介入しなければ、私たちは体験や人とのご縁から、近未来に必要なメッセージを受け取っているのだということに、早く気付くことができます。(もちろん、プレマはマインドが介入している事実に気付いています。それでも、過去世の関係性がありますので、私に対してはマインドを死守するスタンスを保とうとしています。)

結婚すれば、奥さんが、なにかをアドバイスをしようものなら、ご主人方は、必死になって、理論で反論したがる人が多いと思います。それは仕方がありません。議論にもっていけば、多くの男性にとって、それは脳の構造上、得意分野ですから、自分のマインドで必死になってその分野を死守しようとします。

Sさんは、プレマに最高の言葉を言って下さいました。
「水は高いところから低いところへ流れていきます。
(あなたが、奥さん(私)について、マインドを死守しようとしている理由に気付き、この夫婦生活がどれだけ幸せなものであるか本当の意味で)その循環に気付くことができればあなたにも、また大きな変化が訪れるはずです。」と・・・。

まあ、夫婦のことですので、多くは私も語りませんが(笑)、
プレマも潜在意識では、深い意識で私の存在を認めてくれています。
けれども、マインドでは、夫としてあろうという面が存在していますので、どうしてもあっさりとは認めたくはないのです。(笑)もし私が全く他人であれば、彼のマインドはここまではたらかないでしょう。

これは、みなさんにおいても同じだと思います。
相手の反応につい反応してしまうのは、相手が近しい間柄だからです。
知らない人に、なにかを指摘されたとしても、そのとき一瞬
気分が悪いかもしれませんが、余程の心の傷を負わされない限り、
それが何ヶ月も何年も持続することは、まずないでしょう。

夫婦関係や親子関係は、肉体をもった自分が実は、その中身とやらは、実態のないパーソナリティの連なりであったということを、認識するための一番の修行場でもあると思います。相手の反応に自分も反応し、一喜一憂します。何年も何十年もそうした反応を繰り返し、そして気付きます。「ああ、私はいったい何をやっているんだろう・・・」と・・。そう気付いたとき、相手をジャッジせずに、心から受け入れられている自分にも気付きます。そういうこだわりが、薄れていっていることにも気付きます。もちろん、そうなる前に別の道を歩む選択をする関係もありますが、人との係わり合いは、結局のところ、「自分(私)なんて本当はいないんだ」ということを認識していくためのプロセスでもあります。

木をみて下さい。たくさん枝分かれしています。あの枝分かれは私たちのマインドであり、他者との係わり方の現われでもあります。
あっちを向いたり、こっちを向いたり・・・
でも一本の木であることは間違いがありません。それなのに、私たちは
「自分と他人はまったく別の存在」と思いこんでしまっているのです。
それが、私たちにとって一番の苦しみでもあるのです。

あと、話は少し違いますが、前のブログでもお話しましたが、アドバイスを受けている側も、アドバイスをしている側も、同じ立場だということです。ですから、アドバイスされている側も必要以上に、アドバイスをしている人に対し、「すごい!」と思う必要はありません。なぜなら、ヒーリングやカウンセリングや施術を受けているときに、受けている方が心地よいと思っていれば、たいてい、行っている側も同じ気持ちになっています。それが自然の循環であるからです。
それは、あるときは知識の共有であり、あるときは、
体験の共有であり、あるときは心地よさの共有であるからです。

カウンセリングやアドバイスを受けていて、
心地の悪さを感じるときや、つい反論したくなるようなとき、
また、その人と話をしていて、気分が悪くなっているときは、
たいてい、相手があなたの一番突かれたくないツボを
ついているか、あるいは相手があなたを変えようと必死に
なっているかのどちらかです。
どちらもマインドのはたらきです。
そこには、「私」がいよう、いようと必死になっています。
排除されたくないともがいています。

余談ですが、その状況を脱する方法が1つだけあります。
それは、突かれたくないツボが何であるか気付けばよいのです。
相手は、それを知らせようとしてくれているのですから、
気付けばその話題は終わります。

そして、もう1つ、「この人は私の考えを変えようとしている」と思い
抵抗感を感じたときは、「私」であろうとしている自分に気付き、
更にできれば、なぜ私は私を死守しようとしているのかを
洞察できればそれでO.Kです。「私ビーム」は相手のマインドを
くすぐります。ですから「私ビーム」を放つのをやめれば、
相手のマインドも揺さぶられなくなるので、
いつのまにか、空気が変わっていることに気付くはずです。

2つとも、機会があれば一度試してみて下さい。

私も動物たちやご家族からたくさんの恩恵やパワーを頂いています。
こうしたことは、本当に日々感謝しかありません。
私が息子を出産したとき、それまでカウンセリングをさせて頂いた、
コンパニオン・アニマルたちが、亡くなった子達も含め、
総動員で応援してくれました。

「なにかになる必要も、誰かになる必要もない、何かのために、何かをしなくては・・ということもないんだ。この世の中に生を受けたこと・・・その生を受けとめて生きていくこと・・・これだけで本当に素晴らしいことなんだ・・・」そのとき心の底から実感できました。存在そのものが愛である彼ら動物たちが、新たな命を生み出そうとしていた私に、「繋がっていくこと(元に戻っていくこと)の素晴らしさ」として教えてくれたことです。でもまだその頃はマインドの介入(私の場合、自信がもてないというマインドだったのですが)が忙しかったので、定着はなかなかしてくれませんでしたが、今ではあのときの実感が本物であったことを日々感じています。

Sさんは素晴らしいヒーラーです。
そしてSさんの魂のパートナーのお一人である、
Fさん(女性)が、素晴らしい本を出版されました。

「幸せのさくら咲く 神からのメッセージ」
という本です。

Fさんとはまだお会いしたことがありませんが、
頭で理解する文体ではない、心で感じ入る本だと感じました。
彼女の体験も含め、ディクシャのことも分かりやすく
解説されています。また、プレゼンス(内なる聖なる存在)、
集合意識、潜在意識、マインド(表層・表面の意識)など、
「んー、スピリチュアルの中ではよく出てくる言葉だけど、
いまひとつよく分からないなあ」と
思っている方にも、分かりやすく解説されています。
とても心に染み入るメッセージがたくさん入った本ですので、
私からも推薦させて頂きます。

新風社から出版されたばかりですので、
ぜひご興味のある方は、
お読み頂ければと思います。

Sさんとの出会いは、私にとってまた新しい風を
吹き込んでくれるご縁のように感じました。
プレマを通じてというのも、意味深いものがあると
思います。

今度は私たちがSさんのところへ、どうやら行くことに
なりそうです。(笑)
正確には、Sさんに会いに・・・ではなさそうなのですが・・・。

なにはともあれ、本当に遠いところをお越し頂いた、
Sさん、そしてKさん、有難うございました。

みなさんにとっても、いろいろな出会いやご縁はあると思います。
出会いは実に、絶妙なタイミングで訪れます。
重要な出会いがあるときというのは、多くは
内外含めての、自分にとって、なにか重要なお知らせや
ターニング・ポイントになることが多いのです。

タイミングも非常に重要です。
タイミングが合うときは、どんなに難しいと思っている
状況であっても、プレゼンスが全面的にサポートしてくれているので、
「まさか・・・」と思うようなことで実現していくことも
多いのです。それは、みなさんにとっても、必要なプロセスだということです。

「このご縁は偶然とは思えない・・・」そういう感覚が
あったら、ぜひみなさんも、その感覚を「偶然」で片付けて
しまうことなく、大切になさってみて下さい。












【2007/05/24 20:28】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0) |
諸行無常の響きあり・・・
久しぶりのブログです。

ここのところ、またいろいろなことがありました。
そこのところは今、体感中でもあるので(苦笑)、
またいずれご報告できるときがあるかと思いますが、
みなさんは、人生の中で感銘を受けた言葉、文章、詩などは
ありますか?

私も人生のまさに大切な時に、その言葉たちに出会ってきました。
今、日本人の日本語力が問われています。
慣用句やちょっとした言い回しが、間違って使われていたり、
知らない人も増えているようです。
私も大学の時は、イギリスの文化史を選択したのですが、
(口語力はないので、話せませんが<苦笑>)
今思えば、母国語にフォーカスすることも大切だったなあと感じます。

なぜなら、日本語はとても美しい言葉なんだと最近
実感することが多いからです。
日本語ならではの言い回し、間の置き方、想像力を掻き立てる
組み立て・・・これを英語にするなんて無理・・・なんてものも
ありますよね?

まあ、それはさておき・・・
私のお気に入りの文章を紹介したいと思います。

まず今回は、「平家物語」の冒頭です。
有名なので、みなさんご存知だろうと思いますが、
私の大好きな一文です。

それが、私が中学・高校で「世の無常」を考え始めた
頃だったので、まさに「腑に落ちた」、「心にむせぶように
響いた」話でもあったのです。

同じ頃、夫のプレマも、まだ出会いもしていなかったのに、
この文章が響いたそうです。
そのことを知ったのは最近です。
そんな2人の大好きな下りをご紹介したいと思います。



祗園精舎の鐘の声、
諸行無常の響きあり。
娑羅双樹(しゃらそうじゅ)の花の色、
盛者必衰(じょうしゃひっすい)の
理(ことわり)をあらは(わ)す。
おごれる人も久しからず、
唯(ただ)春の夜の夢のごとし。
たけき者も遂にはほろびぬ、
偏(ひとえ)に風の前の塵に同じ。

口語訳

祇園精舎の鐘の音には、
諸行無常、すなわちこの世のすべての現象は、
絶えず変化していくものだという響きがある。
沙羅双樹の花の色は、どんなに勢いが盛んな者も、
必ず衰えるものであるという道理をあらわしている。
世に栄え得意になっている者も、その栄えはずっとは続かず、
春の夜の夢のようである。
勢い盛んではげしい者も、結局は滅び去り、
まるで風に吹き飛ばされる塵と同じようである。


最近、人と暮らす動物たちの中にも、「老い」や「死」、「病気」
を恐れる子が増えてきています。
本来、彼らは野生の状態では、これらを受容的に「必然」として受け入れています。種として淘汰されることはあっても、他の誰かによって、その種の存続は守られていくことを知っているからです。

そして、命あるものいつかその期限は切れ、旅立つことがあり、
その旅立ちも必然であることを知っているからです。
植物が春に新芽を出し、あるいは花を咲かせ、夏にその背丈をぐんぐんと伸ばし、秋には実をつけ、そして冬にはその実を落とし、枯れ、
また春がやってくることを待つ・・・という自然のサイクルを知っているからです。

私のお奨めの一冊に「ティクナット・ハンの般若心経」という本があります。もうかれこれ、14年くらい前に出会った本ですが、
大学が仏教系だったこともあって(私は神仏の存在を子供の頃から意識はしていましたが、私にとって神仏はどんな形でも、あるいは形がなくてもよかったので、特に仏教を信仰していて、大学を選んだとかということでは全くありません。)、般若心経は身近に感じていた私にとっては、とても感銘を受ける一冊でした。

そこに、「あなた方はあなた方の家族や恋人など、近しい存在が亡くなったら号泣したり、取り乱したりして大変です。でも、草木や花が枯れても誰も号泣したりしません。ましてや、近所の顔見知りくらいの関係の人が死んだりしても、『お気の毒に』とは思ったとしても、そこまで号泣したり、自分も死んでしまいたいという思いにかられることはないでしょう。」という意味の下りがあります。私はこれを読んだときに、
父が亡くなったときのこと、愛犬のミルが亡くなった時のことを思い出しました。

確かに・・・毎日どこかで誰かが死んでいっているのに、私たちはそれが自分にとって近しい関係でなければ、号泣することはありません。
野生動物たちは、たとえそれが我が子や母親であっても、そのときは、
もちろん寂しさ、悲しさを訴えます。けれども、それを受け入れていくことにおいては、人間以上に「必然」として悟っている部分が大きいのです。

野生動物の記録のVTRなどをテレビで見ると、私たちは、草食動物が肉食動物に襲われ、生まれて間もない子供が食べられるところを見ると、目を覆いたくなることがあるはずです。
けれども、肉食動物にとっては、そうしなければ生きていくことができません。誰が肉食動物を責めることができるでしょう?

ここで分かるように、私たちはすべてのことを、
自分の今までの経験や知識の価値や基準において判断しています。
そして誰かが亡くなったときでも、
実は本当は、その人や動物のために悲しんでいるのではありません。
自分のために悲しんでいます。
自分がその存在と別れてしまうことが耐えられないから、
悲しみが抑えられないのです。

この事実を否定すればするほど、悲しみや孤独や寂しさや
やるせなさ、罪悪感などから逃げられなくなってしまいます。

死を必然のこととして受け入れて、亡くなった人や動物は、
決して悲しくも、不幸でもありません。
お墓も仏壇も生きている人のためのものです。
旅立っていった人や動物は、肉体がなくなってある意味とても
自由になっています。ですから、もう終わってしまったひとつの
生を「こんな風に祭って欲しい」という自分の希望としてもっている
ものはありません。本人でそういった希望のある人も、生前であるから、「もし、亡くなったらこんな風に供養して欲しい」と思うのです。
亡くなってから、生きている人たちに、自分のことだけで「こうしてほしい」という注文をつけることはまずありません。
生きている家族や近しい人たちの幸せを願います。

肉体がある間は、そんな魂だけの存在としては、
ごくごく普通のことである「相手の幸せを自分の幸せ
と同じように願い、相手の存在そのものに感謝をすること」
を忘れてしまっています。

なぜなら、そこには肉体というものがあるがゆえの
「あなたと私は別々の存在」という
分離意識があるからです。肉体が亡くなってしまうと、
この分離意識から解放されます。
(正確には、本当にどんな状態になっても喜びしかないという
状態になるまでは、肉体がない間の一時的なことなのですが)
ですから、自分だけのためにこうしたいということであえて、
願う必要がないからなのです。
あえて、お願いをすることがあるとするなら、
それは、生きている人がお願いをされる状態を望んでいるからです。

生きている側は、苦しみが持続しています。
「こんなに、早く旅立ってしまうなら、もっと○○してあげれば
よかった・・・」と、「あのとき、私がもっと早くこうしていれば・・・。」と「もっとやさしくしてあげればよかった」と・・・。
そして、その生きている側の苦しみを、
今度は少しでも解放できれば・・・と亡くなった側が
サポートしてくれるのです。

例えば切花がしおれててしまったとき、物悲しさを感じることはあっても、号泣する人はまずほとんどいないでしょう。
なぜなら、切花はいつかしおれることを、あなたが知っていて、
花瓶に生けているからです。

亡くなった側の人、あるいは動物の魂を早く解放し、前進させてあげたければ、亡くなった側ではなく、あなたが「苦しい状態」「悲しい・寂しい状態」を否定せずに受け入れることなのです。
「苦しいのは、旅立ったあなたじゃないのよね?私なのよね・・・。」という風に・・・。

最初はとてもそれはつらいことです。苦しいことだと思います。
でもその感情から逃げているうちは、苦しみは持続してしまいます。

その苦しみを受け入れるにはまず、亡くなった人や子のためでなく、あなた自身のために泣いて下さい。「私はかわいそうだ、私はつらかったんだ。寂しかったんだ。」と・・・。自分を抱きしめてあげることができれば、亡くなった人や子が、どれだけ自分にとって必要な存在であったかについて、本当の意味で気付くことができます。

「相手のために泣いてあげなければ、かわいそう」と思うことは、実は自分のエゴであったりします。相手は自分のために、大切な人が泣いている状態を望んでいません。立場を逆にしてみれば、よく分かると思います。どうぞ、亡くなられた存在ではなく、まずは、あなた自身のために泣いてあげて下さい。その順番を間違えては、心の解放に、悲しみからの脱出に時間を費やしてしまいます。そのときはじめて、心の底から、亡くなった存在に「有難う」の気持ちが湧いてきます。

私自身、インドに行くまで、父のこともミルのことも、順番を間違えてしまっていました。そのうえに、その頃家族の中に問題が起こっていたため、自分が悲しみに浸りきることを「できない」と思い込んで、しないように、乗り越えるように努力してきたのです。その結果が、どうなったかというと、私は結局、慢性的な膵炎に長年悩まされることになってしまったのです。ネガティブな感情は、常に出口を探しています。心が受け入れてくれない・・・となると、肉体的に今度は出口を探すようになるのです。その逆ももちろんあります。

インドに行ってから、自分を抱きしめてあげることを心掛けました。「しんどかったの。つらかったの。悲しかったの。・・でも、あのとき、私まで崩れるわけにはいかなかったの・・・。母も姉もボロボロで、いろいろなことが起きて、私まで問題を起こしたり、迷惑をかけることはできなかったの。」とディバイン・プレゼンス(内なる聖なる存在)にぶつけました。そして、そのときに母や姉に抱いた怒りも、味わうことを心掛けました。「姉も母もかわいそう。このうえ、私が取り乱したりしたら・・・父が悲しむに違いない。」と私は、「いい子」を演じてきてしまったのです。

そうした「感情の体験のし直し」を続けて何日かが過ぎ、
父とミルが一緒に微笑んでいるヴィジョンに遭遇しました。
ただただ、そうした父とミルに会えた事が幸せでした。
注釈・解釈はできません・・・。

久しぶりに彼らに会えたとき(なんのあちらからの語りかけも
なかったのですが)感謝しか沸いてきませんでした。
「有難う」しか言えませんでした。
もっといろいろなことを言おうとも思ったのですが、
言えないのです。伝えられないのです。
言葉じゃないんだと思いました。
私の中で何かが変わりました。
「ここから先は生きている側の問題なんだ」とも同時に思えました。

そう思えてからも、まだまだ私の心の変容は続いています。
常に揺れ動いています。
なぜなら、心はいろいろな側面を持っているからです。
感謝や幸せ感だけのポジティブな感覚に留まっていることは、
ありません。外側に種々の反応や心の動きがある間は、
それらは、海の波のように、押し寄せたり、
引いたりしながら、常に一定ではありません。
一定になった人は、ポジティブな考えにも、ネガティブな
考えにも一喜一憂しなくなります。
ただ、感情が押し寄せてくるという事実を感じているだけです。
一喜一憂していてもいいんです。
「なにかをしなくてはならない」とか「こうしてはいけない」という
ことは、あなたの心を自由にしてくれません。
固定概念や常識を取り払った状態で、
あなたの心が何を感じ、何を求めているのかということを、
「感じる」ことがまず必要なのだと思います。

私も、姉や母がポジティブ・シンキングを全面に表現している
バイタリティのかたまりのような存在だったので、
自分もそうあるべきだと長年思っていました。
でも、私は自分のネガティブな側面も同時に知っていました。
そこを指摘されると、なんともいえず、悲しい気持ちになりました。
でも今は、ネガティブな面があってもおかしくない、
いいじゃない?とようやく思えるようになりました。

よく勘違いをされることは、「ディクシャ講師」になった人は
「悟っている状態なの?」ということです。
ワンネス・ディクシャ講師は、講師自身もプロセス途中の人たちが
殆どです。ですから、ディクシャを行なうことで、自分自身の魂と
他の人たちとのつながりを体感して、気付いていく、原点を思い出していく必要があるのだと思っています。

まさに、「諸行無常の響きあり」です。(笑)
私もまだまだ修行中なんですよ。
誇れるものも、褒められるものもなにもありません。(笑)
ただただ、お役目柄、いろいろな人や動物にお会いすることが
多いので、そういう意味では日々、いろいろな体験をさせてもら
ったり、教えてもらうことも多いと思っています。
本当に有難いことです。

カウンセリングをしている側や、ヒーリングをしている側や、
なにかの講師をしていて、教えている人や、あるいは、
お医者さんや獣医さんが、そのセッションや授業や、あるいは
治療をを受けている人よりも、優れているなんてことは
一切ありません。みんな同じなんです。
相手があってこそ、恩恵を受けているんです。
弟子の方が、師匠よりも、あるいは子供の方が親よりも、
魂のプロセスが進んでいる、先輩だったりすることはよくあります。
みんな、今生での関係性にのみ囚われているので、
よく勘違いしてしまう場合があるんですね。
だから、驕りが生まれたり、逆に必要以上に相手に依存して
しまったりする関係性ができあがってしまうことがあるのかも
しれません。

また、心に残る文章は随時紹介していきたいと思います。
文章や歌などの「フレーズ」というものは、複数の人と共感したり、
気持ちをシェアリングしやすいものなんですよね。

みなさんも、「この文章・詩・言葉」に共感した!という
ものがあればぜひ教えて下さいね。
【2007/05/22 12:48】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(2) |
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りえこ先生のブログ


プレマ動物ナチュラル・ケア・クリニックのりえこ先生のブログです。

プロフィール

プレマリエ

Author:プレマリエ
ホリスティック(ナチュラル)・ケア主体の動物クリニックを、獣医師の夫と共に営んでいます。私は動物の心・魂からのメッセージを、ご家族にカウンセリングを交えてお伝えする、アニマル・コミュニケーターをしています。また、2005年に南インドで研修を受け、魂の前進・解放を促すエネルギー・ワーク「ワンネス・ディクシャ」のインストラクターになり、セミナーも開催しています。人と動物の種別を超えた絆、人や動物たちが本当に幸せになるために、魂的な前進をしていくために、私たちが、どのように生きていくことを自覚していけばよいのかなども、お話ししていきます。どうぞよろしくお願いします。

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