インド研修パート2 (34) 〜心がとても温まったお話し〜
インド研修の続きです。現地ガイドの方がまた大学のプログラム参加者の方の
話をされました。

「その女性には12歳の自閉症の子供がいて、彼の世話は全て彼女がしなくては
なりませんでした。プロセスの間、彼女は苦しみました。
思うように、息子は反応してくれません。情緒不安定になることも多く、
年齢が大きくなってくるほど、彼女は息子の対応に悩んできたのです。
『何をしたために、私は一体こんな状態になったのでしょうか?』と悩み続けました。
それと同時に、母親としてそう悩むことに対して罪悪感も持ってしまっていました。
子供を内側で嫌ってみたり、自分の人生を嘆き、神様に悪態をついてみたりしては、
そんな自分が嫌でたまらなくなっていました。

プロセスの終わりに、彼女はアンマの声を聞きました。
『家に帰りなさい。そして、私を愛するように息子さんを愛してあげなさい。』と・・・。
彼女が家に戻ると、初めて息子のことが心からいとおしく、そして素晴らしく
美しく思えたのです。彼女が息子の世話を始めると、これまでと違って、
楽しんで遊びの延長のような感覚で、息子と向き合えるようになっていました。
子供の方も、彼女に笑顔を向けるほど、信頼関係を強めていきました。

それから半年後のある夜のことでした。
子供が寝ようとしたので、彼女が灯りを消そうとすると、
子供が突然彼女の指をつかみました。
驚いて彼女は息子をひざの上に乗せると、
その子は彼女の目をまっすぐ、じっとみて笑顔を数分間向け続けた後、
その腕に抱かれたまま、静かに息を引き取ったのです。

子供が亡くなった後、アンマとバカヴァンの写真に向って、
彼女は泣きながら言いました。
「私が何をしたからこの子は逝ってしまったのでしょう?」と・・・。
アンマからの返答はこうでした。
「あなたの息子さんは、この世での仕事を終えたのです。
あなたが知らなかった本当の愛<全てを受け入れること>を
あなたに教えるために、彼はあなたのもとへ来ていました。
それが終わったのです。
1年後、あなたには赤ちゃんを授けましょう。」と・・・。

実はその女性は、その子を産んだ後不妊になり、
医師から『もう妊娠は無理でしょう。』と告げられていました。
ところが数ヶ月後、彼女は医師も驚く中、妊娠をし、
本当に、アンマの予告から1年後、赤ちゃんが生まれたのです。

どんな状況でも、どんなものでも、宇宙からの贈り物です。
それをあなたが、宇宙からのギフトとして、そのまま受け入れて
感謝をした時、あなたが思いもしなかったプレゼントが渡されます。
宇宙もあなたの成長と、幸せを何より願っているからです。

カルキ・バカヴァンは言います。
「ほとんどの人が、神仏の前で祈ったり願ったりする中で、
自分自身の準備を整えていません。
ミラクルやギフトは、その人の準備ができた状態のとき起こってくる
のです。時には、そのことを諭すために、プレゼントを先に
渡すこともありますが、みなさんの中で、ほとんどは、
準備が整えられたときに、願いはかなっているはずです。」

********************************

私はこの母親の話を聞いたとき、私の友人の一人の状況と
重なって涙が出てしまいました。
3年前のインド研修から帰国したとき、
私の友人の息子さん(重度の障害がある子でしたが)
が亡くなった訃報が入っていたからです。
友達は意外に元気でした。
それでも心配になり、後で話を聞くと、
このインド人女性の話と同じように、とても合点がいくような
ことが旅立ったその日にあり、自分の中でそれを受け入れられたのだという
ことでした。
それでも、我が子に先立たれるということは、
心中として、どんな思いだっただろうと今でも思います。

しかしながら、このインド人女性のように、
それまでその子のことを、心のどこかで受け入れ難く思っていた時期を超え、
心から母子として、幸せな時間を過ごせたからこそ、
与えられるものもまた・・・あったのだろうと思います。

バカヴァンの言葉の中にもあるように、
私たちは神社仏閣に言って、子供のころから
いわゆる「お祈りをすること」を、親や祖父母から教わってきた
と思います。
けれども正しくは、神仏には私はまず感謝をすることが
大切だろうと思います。
お祈りというのは、いわば願い事の要素を含んでいます。
「どうぞ私の内側が常に平安であるよう、お導き下さい。」と
願うこともお祈りですし、
「今年のサマージャンボが当たって、家を新築できますように。」
と願うのもお祈りです。

もちろん、それでも私たちの中で、種々の準備が整っていれば、
祈ったことがそのまま叶うときもあります。
しかしながら、私たちと神仏は循環しあっています。
ですからそれは、私たちと神仏の共同作業によって、
実現できたことだと言えるでしょう。
なぜなら願っても、自分だけの力で100%物事が
スムーズに運ぶことはあり得ないからです。
どんなときにも、ハプニングが起こらないとは言い切れません。
十分実力があって合格間違いなしの志望校でも、
その日体調が悪くなったり、
あるいは突然電車が止まってしまうかもしれません。
そうしたハプニングは、自分の力だけではどうしようもないことです。

神仏という言い方を、今回バカヴァンは使っていましたが、
特に信仰がない方であっても、内側の自分を常にサポートしてくれる
聖なる存在(プレゼンス)や、大自然や宇宙との循環と
考えて頂ければよいと思います。
実際、ワンネス活動を推進している、カルキ・バカヴァンやアンマも
特定の宗教や教えを布教しようということは一切行っていませんし、
ワンネス・インストラクターの方も、世界中に分布していますが、
それぞれの宗教を信仰している人たちもいれば、
全く無宗教の方たちも多くいます。
アンマやカルキ・バカヴァンのことでさえ、
「アヴァター(インドには数百人存在しているという、神の化身
と呼ばれている人たち)と認めたくないから、
ワンネス活動には協力しても、特別に敬いたくない。」と
豪語する人もいるほどです。
それでも、アンマもバカヴァンも「全く問題はありません。」と
どんな人たちにでもわけ隔てなく、恩恵を下さっています。

自然に私たちは毎日触れています。
大都会の真ん中でも、太陽は目にするでしょうし、
風も吹くでしょう。
それを私たちは、ごく当たり前だと思って1日を過ごしています。
けれども、太陽がもし目の前から消えてしまったら・・・
あるいは逆に、太陽を覆うオゾン層の破壊が進んでしまったら・・・
空気を吸うことができなくなったら・・・?
水が自由に使えなくなったら、どうなるでしょう?

私たちは、「苦しい時の神頼み」ばかりしてしまっています。
例えば病気にならなければ、体をいとおうとしません。
例えばお金に苦労をしなければ、金銭的なことに注意を払おうとしません。
例えば夫が、妻が、子供が、親が病気になったり、
突然いなくなったりしなければ、
その有りがたみに、気づこうともしないのです。
文句や愚痴を言っては、不足のところばかりを探しています。
十分にある状態に感謝することなく・・・。
こうした意識が一人、また一人と広がっていってしまったら、
地球はどうなってしまうでしょう?自然は今、どんな状態でいることでしょう?
私も含め、これは今後も、みなさん一人ひとりが、
考えて、そして感じて、受け止めて、そして考え方そのものを
生まれ変わらせることで、流れをいい方向へと変えていくこともまた、
できることだと、私は思っています。
たとえ時間がかかったとしても、自分たちの生きている間に間に合わなかったと
しても、次の世代の種がたくさんの感謝の心で満たされていく世界の中で、
大きく育っていくことを、願ってやみません。

このインド人女性のお子さんや、私の友人のお子さんのように、
徳高い魂が、今の時代、たくさん、一見、大変な状況だと思える形を
取って生まれてきています。
身体的に健康な状態であっても、今の子供たちは、
私たち大人よりも、魂的には熟練した子たちが多く転生しているようです。
コンパニオン・アニマルたちもまた、多くの魂が私たちよりも多くの経験を
積んだ先輩たちです。
子供たちや、コンパニオン・アニマルたちは、
私たちに何かを伝え、教えようとしてくれています。
どうか、そのことを心に留めておいて頂ければと思います。

ありのままのその子、そして一見大変な状況でも、
そのままを自分が納得して自然と受け入れられたとき、
私たちの中で、何かが変わり始めます。
何かが変わり始めたとき、私たちの中で、
当たり前だと思っていたことが、当たり前ではなくなります。
だからこそ、小さな喜びが持続したり、
自然に感謝の気持ちが生まれていくのです。
それが、アンマやバカヴァンの言う、大宇宙からの一番の
ギフトだと思います。
みなさんの中でも、大変な状況のときこそが、
大きく自分の意識が変わるチャンスでもあるのだと
捉えてみて下さい。
私も父を見送り、パートナー犬を見送り、
大きく自分の内側のベクトルが変わりました。
もちろん、そう言えるようになるまでには、
年月がかかりました。
それでも、人にはそれぞれに、乗り越えられない状況は起こっては
こないと言われています。

苦しい状況を通じて、私たちはたくさんの恩恵をもまた同時に得ています。
私も自ら病気をしなければ、病気の人や動物の気持ちは分からなかった
だろうと思います。
父や愛犬の死を乗り越えなければ、みなさんにお伝えできることは
もっと浅薄なものになっていたかもしれません。

どうか、今、苦しいと思っている方は、
苦しいと思っている状況やご自身を否定しないで下さい。
必ずトンネルには出口があり、その出口には今までの経験がプラスに
活かされるということも、心に留めておいて頂ければと思います。

どんな状況でも、それをみなさんが、ありのまま受け入れられる状態に
なったとき、みなさんは魂的にも心理的にも、大きく前進しているはずです。
そのときは、大宇宙からの恵みとして、
形になるものもあれば、ならないものもあるかもしれません。
それでも、そのときがくれば、両手いっぱいの恩恵を、
遠慮することなく受け取って下さい。

今日のプレゼンスからの言葉です。

〜人生の山あいの険しい道も、平たんな道も、岐路も、すべて
 あなた方が設計してから、この世界に降り、今の人生を歩んでいます。
 あなた方が自分で描いた地図を思い出したとき、
 ゴールに向かうことはとてもたやすくなります。
 ルートを変えることもできますが、
 なぜそのルートを選んだかが明確になると、
 もはや、道のアップダウンはそれほど重要ではないことにも気付くでしょう。
 まず、大切なことは、あなたが地図を描いてこの世界に
 やってきているという事実に気付くことなのです。
 それだけで、その後のあなたの人生の旅路を楽しめるからす。
 なぜなら、あなた方は自分で描いた地図を持たずに
 それまでの人生を歩いてきたからです。
 ですから、地図を自分で描いたという事実にまず、気づくことで、
 とてもその後の旅は、ラクなものになります。〜

【2008/02/18 22:51】 | 2007年11月インド研修日記 | トラックバック(0) | コメント(0) |
インド研修パート2 (33) 〜毎日私たちは生まれ変わっています〜
インド研修の続きです。

ガイドの方のお話が続きます。

「苦しみにも実は『中毒』の状態があります。

定期的に大学を訪ねてくるある女性がいました。
その女性は最初、家族の問題があり相談にきていました。
その問題は解決しまいた。
次のときには、『息子の就職先が決まるまで、私は
心配で幸せにはなれません。』と泣いて相談に来ました。
そして、その問題も息子さんが就職し、解決しました。
ところが次にその人は『息子の結婚相手が気に入らないのです。』
といってまた泣いて相談に来ました。
その場合も、何度かカウンセリングに来てもらい、
無事解決しました。
次にまた『孫ができたのですが、この孫が、私にだけなつかないのです。』
とまた泣いて相談に来られました。

問題を解決しても、この場合、彼女を幸せにすることはできません。
彼女の場合は、自分で気づかないままに「悩むことが幸せ」なのです。
問題を解決してしまったら、さらに悩むために違う問題を繰り返します。

バカヴァンは言います。
「ほどんどの人の苦しみは、自分が作り出したものです。
自分が注意を向けているものは増大し、
自分が注意を向けていないものは減少します。
この宇宙の法則を忘れないで下さい。」と・・・。

苦しみや否定的な問題煮ばかり意識や注意が向いていると、
未来にもそのような問題が連発してしまう可能性があるということです。
これに反し、人生に何が起ころうと、大いなる存在の恩寵であると
感謝をし、受け入れている人たちには、すばらしい未来が開かれていきます。」

***********************************

私はこの話を聞いて、本当に合点がいきました。

学生のとき、私の友達にも「悩むことが趣味なの?」というくらい、
毎日毎日、悩んでいる子がいました。
健康なのにも関わらず、「いつ死んでしまうかと思うと、
不安で仕方がなくなってしまうときってない?私はいつも思うよ。」
と言ったりしていました。
その子のお母さんにも「昔はくったくのない、明るい子だったのに・・・
大きくなってから、物事をなんでもマイナスに捉えるようになって
しまって・・・いったい何があったんだろうね。」と言われたこともありました。

その子にとってもなにか、きっかけがあったのだろうと思います。
物事をマイナスに考えることは、
実はプラスに考えるよりもラクなことなのです。
なぜなら、プラスに考えていて、どん底に突き落とされるようなこと
があっても、もともと前向きな人は「まあ、次があるさ」と
考えられますが、マイナス思考の人は、そう簡単には
切り替えがきかないからです。
自分が傷つきたくないから、最悪の事態を想定して、
自分をプロテクトしているのです。
10代の頃は、私も「傷つきたくない」という気持ちが強かったせいか、
彼女のように、人に悩みを打ち明けまくったりはしませんでしたが、
なかなか幸せな未来が描けないで、
いつも悪い状態ばかりを想像していました。
正直な話、そのほうがラクだったからです。
もちろん、今は違います。
「人生とは自分が内側でクリエイトし、外側の世界で
表現していく世界」だと、気づいているからです。

けれども、友達のように、日頃誰にでも悩みを気軽に口にしている
人ほど、本当に心底悩んだときには、
誰にも言わずに突然行動に出ることがあります。
(私の友人も何人かそうしたパターンの子がいましたが、
本当に重大な問題のときには、突然いなくなって周囲が心配したり、
自暴自棄な行動に出ることも少なくありませんでした。)

ですから、この大学に通っていた女性も、
現地ガイドの方に悩みを相談しにいけていたということは、
おそらく、自分の中で思うほど、悩みの度合いは大きくなかったのだろうと
思います。
ただ、悩んでいない状態の方が、彼女にとっては不安なのでしょう。

人生は、私たちの意識が創造したことを外側で体験することの
繰り返しです。
本当のところは、いいとか悪いとかもないのです。
自分の軸にあわせてその状態を「いい」「悪い」と判断しているに過ぎません。

意識が高まっていくと、物事に「いい」「悪い」や「ラッキー」「アンラッキー」
などの判断をつけ、一喜一憂すること自体がなくなっていきます。
なぜなら、物事は、いい悪いに関係なく、ただ私たちの周りを流れているからです。
自分にとって都合のいいことでも、悪いことでも、
体験し、楽しめるようになっているとき、
私たちの内側は前進しています。
内側が前進すれば、外側ももっとクリエイティブに、
いわば、自分にとって都合のいいように展開されていきます。

私たちの人生では、脚本を何度書き換えても構わないのです。
ただ、書き換えたことを、プレゼンスにも、きちんと伝えておく必要はあります。
整理ダンスに切れなくなった服を入れたまま、新しい服を買うと、
タンスは入りきれなくなって、新しく入れた服からはみ出して収納できなくなります。
人生もそれと同じです。
古い思考パターンがあなたの中にあって、
新しい思考パターンが入る余地をなくしている場合があります。
そんなときは思い切って、内側の聖なる存在に、
「これまでの考えは不要になったので、新しい考えを入れたいので、
ちゃんと整理してインプットし直します。」と伝えておきます。

迷った場合も同じです。
「私は家が欲しい・・・あっ、えっと・・車が先かな?・・・いやいや、彼氏が先だわ・・・
いや、もっといい仕事に就きたい・・・かな?」などと、
焦点が定まらないお願いは、叶いにくくなります。
本当に、自分にとって、今、必要なことは何なのか・・・
それがきっちりと分かると、内側で外側の舞台に向けて、
創造のプロセスが(脚本を書くこと)が始まります。

あれも、これもと欲張っていると、
実は、内側の脚本を書く方の作業が手間取ってしまい、
外側の現実が起こるまでに相当の時間を費やしたり、
遠回りをする結果になることが多いのです。
内側と外側の因果関係に気付いてくると、
意識も向上していきますから、
何が今、自分にとって必要なのかということも、
感じやすくなっていくと思います。
そうした、内側と外側のパターンを理解していると、
人生がとても楽しくなります。

人生とは、とてもフレキシブルで、クリエイティブです。
葛藤が生じたまま日々をすごすか、
人生を楽しんで生きていけるかは、
まず、自分で意識をして脚本を書けるか
(プレゼンスとの絆を深めることがその一番の早道だと思います。)
によるところが大きいでしょう。
自分の内側の意識が、外側の世界を創造しているということに
気付かない人は、マインドの中で創造した出来事に日々、
翻弄されてしまうでしょう。
ここでいう、自分で意識をして脚本を書くことと、
マインドが脚本を書くことは、区別して下さい。
マインドの描く脚本は、自己中心で、他者との関係性の中で、
分離された状態です。
一方、内側のプレゼンスとあなたの意識とが調和を持って、
描いた脚本は、あなたにとっても大切なものですし、
それは、周囲にとってもいい意味で影響していくものになります。

プレゼンスからの言葉で今日の締めくくりをしたいと思います。

「その人の幸せが、喜びや楽しさの中にあるとは限りません。
苦しみや悩みの中でしか、幸せを感じられない人たちもいます。
なぜなら、そこに「幸福」「不幸」というレッテルがついているからです。

不安や心配の多い人は、「幸福」なところに自分たちが身を置くと、
不幸に転落したときの気持ちが受け止めきれません。
ですから「不幸」なままでいいと思っています。
(表面的には、それに気付いていない場合も多くあります。)
けれども実際には、幸福も不幸もありません。

雨もある地域では尊ばれ、ある地域では疎まれます。
ある地域で「縁起が悪い」と言われているものが、
ある地域では「とても縁起がよい」とされています。
多くの物事は、その人の価値基準で「都合がいいこと」か「悪いこと」かで、
判断されているからです。

物事に対し、いい、悪い、幸福、不幸などのレッテルを貼らない人たちは、
どんな状況に対しても喜びを感じるため、至福でいられます。
物事や他者にレッテルを貼らない人たちは、
どんなに過去に体験した同じ状況のことであっても、
生まれたての赤ちゃんのように、初めてのこととして反応し、対応します。
なぜなら、用意されたシチュエーションは、過去と似ていたとしても、
同じではないと知っているからです。
彼らは、肉体の誕生日以外に、毎日365日をバースデーとして、
捉えています。

外側の世界も同じように見えていても、
毎日何かが生まれ変わっていて、
あなた方も物事も、そうして常に変化している・・・
その事実を受け入れ、
どんなシチュエーションでも、そのままを受け止め、
楽しんで体験ができること・・・
あなた方にとって、都合がよくても、悪くても、
それこそが、人生の本質なのです。」

【2008/02/15 16:45】 | 2007年11月インド研修日記 | トラックバック(0) | コメント(0) |
インド研修パート2 (32) 〜映画をみて思ったこと(2)〜
前回からの続きです。

私は、亡くなった父には、結婚式で一緒にバージンロードを歩いてもらって、
それから、たくさんの孝行をしたいと考えていました。
でも、父はプレマに会わせることもできないまま
自分の役目は終わったと、足早にプレマにそのバトンを
渡して(くれたのだろうと私は信じています。)旅立っていきました。
パートナー犬だったミルも、どれだけ私の勝手に付き合わせて
しまったことでしょう。それでも、私をありのまま受け入れ、
最期に私に抱かれたまま、旅立っていきました。

一緒に居るときは、立ち止まって相手の存在に感謝する
ことさえできなかったことを悔やんだ時期もあります。
けれども、父もミルも私にたくさんの
メッセージと「本当の愛」とはどういうものなのかということを
残していってくれました。

父は「親にしてもらったことは、親に返そうなんて思わなくていい。
たいてい、お父さんもおばあちゃんのことは大事にしてきたけど、
それでも、お前たちやお母さんにしてやりたいという気持ちほど
にはなれなかった。おばあちゃんもそれでいいと思ってくれている
と思う。結婚をする、家庭を作るということは、そういうことなんだよ。
相手のために、何をしてあげられるだろう、してあげられることを考えると
わくわくしてくる・・・今まで親や色々な自分を愛して、支えてくれた人たち
からもらったものを、今度は家族やまた、その繋がりから縁ができてくる
人たちに渡していける・・・それが、本当の結婚というものなんだ。

親にはこれだけしてもらったから、親の面倒はみなくちゃいけないとか、
そんなことは一切考えなくていい。親は子供を育てる中で、
かけがえのない時間や思い出をもらっているし、子どもと一緒に育てて
きたものもたくさんある。人との関係を築いていくのにはエネルギーが
いる。そのエネルギーをもらった人に返そうなんていうことに使わなくていい。
今度は、お前がまず自分たち夫婦の基盤を作って、色々な人たちに
それを渡していくんだ。夫婦の間の基盤さえ、きちんとできていれば、
自動的に、愛とか感謝とか、そういう気持は周りに流れていくものなんだよ。

お前も、子供に恩を求めるようなことだけはするな。
言わなくても、子供ができればわかるだろうと思う。それだけ、お父さんも、
お前たちには、そこに居てくれるだけで、毎日が感謝の連続だったよ。」
そう言って、父はハミングで、私によく歌ってくれた童謡を口ずさみ始めました。

父は、亡くなる1年くらい前から、私にたくさんの言葉を残してくれました。
それは、私にとっては、今でもどんな金品よりも大切な宝物として残っています。
父やミルからもらった、たくさんの形にならない贈り物は、
私の中で今も生き続けています。

映画の中のハルモニをみていて、父を思い出していました。
(父はハルモニほど注意もせずに、受容してくれたわけではありませんが、
それでも、自分が父親に理不尽にどなりつけられて、親だからという理由だけで、
いつも無条件につくすことを強要された、子供時代を送った経験から、
『自分は反面教師の父親になること』を心に誓い、私たちに本当にやさしく、
忍耐強く接してくれた人でした。ですから、喜怒哀楽が激しく、子供のように
感情をストレートに表す母のことも、決してその人格を否定するようなことは
言ったりしたことがありませんでした。)

本当に人を目覚めさせるには、いくら感情をぶつけても、
正論という名の理屈をいくらこねても、それは根本的解決にはならない・・・
いい格好をせず、ありのままをみせ、その中で「自分で考えて気付く」
というプロセスを踏ませることは、相当忍耐がいることだと思います。
けれども、そういう対応をされた人は、同じ過ちは犯さないでしょうし、
困難にぶち当たった時でも、
自分で解決できる方法をみつけられると思うのです。

子育て中の私にとっても、とても再考するきっかけになった映画でした。
まだまだ、私も修行中の身・・・つい、子供が感情的になれば、
カッとしてしまうこともあります。けれども、そんな私の至らなさを、
魂的な成長を、子供は促してくれている・・・そんな子供の方が、
よっぽど忍耐強いなあと、つくづく思ったりして、子供に対しても、
いつまでも同じことを言ったり、怒ったりすることが、無駄な努力や労力だと
思えるようになりました。(笑)

けれども、子供も私にとっては「プッシュマン(葛藤のスイッチを押す人のことを、
私は勝手にこう呼んでいます。私も誰かにとってはプッシュマンになっていること
でしょう。誰もが必ず誰かのプッシュマンです。そして、みなさんの身近にも、
みなさんにとってのプッシュマンがいることでしょう。)」
なので、ときにはぶつかったりすることもあります。

でも、ここで大切なことは、やはりエゴのゲームになっていないか、よく観察することです。
私も疲れがひどかったり、体調が悪いときには、エゴのゲームに巻き込まれていながら、
抜けられないときがあります。そこには「しんどいんだから、その状態に気付いてよ!」
という私の本音があります。だからきちんとそのことは、必ずその日のうちに、
子供に謝ります。「ごめんね。ママ今日体調が悪くて・・・ママが悪かった。ママの
都合で怒ってごめんね。」と・・・。子供にもきちんと分かってもらう必要があります。
「大人も決して完璧ではないのだよ」と・・・。

それを知っている子供は、大人になってから、支配的に権力的に、
他者に振舞うことは格段に少なくなると思います。
「子供は大人の言うことに従わなくてはいけない。だって、大人の人のいう
ことは、社会の先輩なのだから、絶対なんだ・・・」そう思って育つと、
目下の人が従順に自分に従ってくれている間は、後輩でも、
子供でもかわいがるでしょう。
ただし、下の人が反抗したり、意見するような態度に出ようものなら、
態度を一変させるような、大人になってしまうかもしれません。

男性でも、女性に対して優しい人であっても、
それは自分より下にみているからという背景がかくれている場合もあります。
自分より例えば仕事ができる、有能である、何かの才能をみせつけられる、
自分よりも目立つ・・・そういうことで腹を立てるようなことがあれば、
その人は条件づけの優しさに縛られています。
それには、なにかに条件づけられたその人の苦しみがあるはずなのです。

ですから例えば、子供には素直に謝れるけど、妻には、夫には素直に謝ることができない
という人もいるでしょう。反対に、「なんで、私が(親なのに)子供に謝らないといけないの?」
と思う人もいるでしょう。
また、動物たちと暮らしている方でも、約束したことが守れなかった時、
動物たちのことは怒るのに、自分は謝らずに過ごしている人もいるでしょう。
それが、どうしてなのか・・・考えてみて下さい。
必ず、あなたの中にその背景があり、答えがあるはずです。

相手のせいだ・・・と思っている間は、何も変わりません。
何かの状況のせいにしていても、同じです。
そういう、あなたにとって不都合な状況が起こってくる場合は、
あなたの方に、そうした思考パターンがあり、それに気付く必要があるからです。
それに気付くまでの間は、あなたの身近な人は、あなたのしてほしくないことばかり
するでしょう。言って欲しくない言葉を連発するでしょう。
そしてあなたはそのために常にイライラします。
腹が立ちます。泣きたくなります。
そして怒って、あるいは泣いて、
相手のせいにして、謝ることもできなくて・・・その繰り返しです。
私も何度もこうしたことを繰り返してきました。

でも・・・そうした感情も、相手が傍に居るからこそ、
起こる感情なのだということを思ってみて下さい。
そうすれば、忙しく相手との間で、怒ったり、泣いたり、笑ったりできることが、
当たり前ではないのだという事実にも、いつか気付く時がくるでしょう。
そのときになって、どれだけ後悔しても、もうそのときは二度と戻ってはこないのです。
どうか相手を通じて、自分に起こってくる感情のパターンについて、
今一度、自分を振り返ってみるとよいかもしれません。


長々とお話してしまいましたが、
このときの体験を振り返った今、また、私が受け取ったプレゼンス
(内側の聖なる存在)からの
メッセージを1つお伝えしたいと思います。



〜探し求め、追い求め、渇望しているときには気付かないもので、
気付いた時に、近くにそっと通った跡だけが残されている・・・
それが真の愛です。愛は「自分と言う存在に気付いて欲しい」とは言いません。
気付いたときに、それが、そう(愛)だったのかと気付くものだからです。
そしてまた、それが「愛」だと気付いたときに、そのバトンは
既にあなたへと渡されています。本当の愛がそこにあったという事実に気付いたとき、
あなたはそのバトンを、ただ握りしめたままではいられないでしょう。
本当の愛に気付いたとき、あなたの中にある愛もまた、
他の誰かのためにと、バトンを渡したくなるからです。
そうして、真の愛は常に循環していくものなのです。〜


身近な相手が傍に居る間に、このメッセージの真意に気付いた人は
本当に幸せだと思います。
どうかその気持ちを、育て、拡大し、そして自然のサイクルのように、
四季のサイクルのように、循環させていって下さい。
たった一人からでも、気付いてそうできるだけで、
この世界は大きく変わっていくと思います。

【2008/02/07 18:45】 | 2007年11月インド研修日記 | トラックバック(0) | コメント(0) |
インド研修パート2 (31) 〜映画をみて思ったこと(1)〜
インド研修報告の続きと、その中で私が気付いたこと、
思い返したことをまた、お話していきます。

11月8日は午後から映画をみることになりました。
題名も何も説明がありませんでした。
しかも吹き替えもないとのことで、何が始まるんだろうと
思っていましたが、韓国の映画でした。
日本に帰って調べてみると「おばあちゃんの家」
というタイトルのものでした。

超わがままな少年を、母親から預かり、
何ヶ月かの間、面倒をみることになった祖母は、
その子がどんなに悪態をついても、
わがままを言っても、叱ることなく、
ありのまま受け入れていきます。

普通なら、考えられないような話です。
腰の曲がった祖母が重いリヤカーを引いていても
手伝おうともしない少年、それに対しても何も
言いません。
「こんなもの食べれるかよ!フライドチキンが食べたい!」と
田舎料理を食べずに
ごねてばかりいる、このわがままな孫のために、
祖母は何キロも歩いて、鶏を仕入れてきます。
けれども祖母はフライドチキンなるものを知らないので、
出来栄えをみて、孫の少年は「こんなものは食べられない」と
暴れ出す始末・・・。
せっかく作ってくれた料理は引っくり返して怒る、
祖母を蹴り飛ばす・・・みていても、ひっぱたきたくなるような
行動を繰り返します。

おまけに近所の女の子に淡い恋心を抱いた少年は、
祖母の買い出しについていって、偶然その子と出会い、
祖母に「おやつが食べたいからお金が欲しい」とねだり、
「わかった。おばあちゃんはまだ荷物を取りに行かないと
いけないから、先に友達とおやつを食べてるといいよ。」
と言われ、おやつを買ってその子にあげるだけならまだ
よかったのですが、その子の乗ったバスに先に
乗って帰ってしまい、重い荷物を抱えた祖母は、
財布もなく、何キロもの道を、歩いて帰ることになってしまいます。
けれども、祖母は孫を叱ることもせず、
ただただ、孫が喜んでくれてよかった、無事に家に着いて
いてよかったと喜びます。

そんなわがままを繰り返していくうちに、
やがて少年は、祖母の心の大きさに気付いていくのです。
本当に人をありのまま受け入れると、
相手はいつしか自分の質に気付き、
それをいい方向に伸ばしていけるのだということが
よく描かれた映画でした。

少年は、熱を出した祖母のために、料理をしたり、
洗濯をしたり、掃除をしたりということをし始めたのです。
今まで、どれだけ自分がわがままを言って、
祖母を振り回してきたか・・・少年は、自分の肌で感じ取って
いきます。

もしこれが、「お前は悪い子だ!」と思いっきり叩かれ、
「ろくな大人にならない」とばかりにお説教をされていたとすれば、
「人は注意して、ときにはどなりつけなくては、矯正できないものだ」
とこの少年は学んだでしょう。
これが、私たちが一般的な大人からいわゆる「しつけ」と称されて、
受けている対応の事実でしょう。
けれども、映画の中のハルモニ(おばあちゃん)は、
どんなに少年が悪態をついても、どんなに悪いことをしても、
それを黙って、受け入れていました。
こんな人は、私たちの祖父母世代であっても、そうはいないでしょう。

この祖母は決して少年を甘やかせているわけではありません。
現代にありがちな、孫には何でも買ってやったりする、祖父母のような、
猫かわいがりはしていないのです。
できないことはできない、買えない時は買えないという事実もみせていきます。
都会から持ってきたゲームのバッテリーが切れてしまって、
少年は村中の電気屋さんや商店を回りますが、
ゲーム機にあうよなバッテリーはみつかりません。
祖母は、工夫して手作りでおもちゃを作ろうとします。
そうした工夫や事実をみせていくことによって、
最初は相手にせずに反抗ばかりしていた少年が、
自分では何も生み出せなかった、アイディアさえ出せなかった状態から、
脱出していくのです。少年は自分でも絵を描いたり、それでカードを作ったりと
工夫をし始めました。

これは、なにも子供だけに関することではないのだと感じました。
私たちは、たいてい相手に対して怒ったり、お説教したりするとき、
そこに、「常識」や「固定概念」や「自分からみた都合」が
存在しています。

怒鳴ったり、お説教することは簡単かもしれません。
そして、相手はそれに対して従うかもしれません。
そして怒鳴ったり、お説教をした方は、
「やっぱりきちんと言っておいてやってよかった。
言わなきゃ分からないだろうし、結局は相手のために
もよかったんだ。」と自分を正当化します。

でも言われた方は、単に「これ以上責められたらたまった
もんじゃない。適当にあしらっておこう。」と思ったのかもしれませんし、
どなられたことによる恐怖心から、謝っただけかもしれないと
いうことです。(私にも経験があります。)

実際、私は母によく怒鳴られました。姉にもよく怒鳴られました。
父には滅多に怒られませんでした。
けれども、その父が怒るということは、余程のことだと思いました。
つまり、その方が言われた方は堪えるのです。
私は父から「愛されている」ということに対して、
絶対的な自信を持っていました。

だからこそ、その父の顔を曇らせてしまったということは、
私はとんでもないことをしたのだ・・・と反省したものでした。
母に怒られて泣いたのと、父に怒られて泣いたのは理由が違いました。
母に怒られて泣いたのは純粋な恐怖心からでした。
でも、父に怒られて泣いたのは、ふだん穏やかな父に
怒りを私に向けさせるということは、父の心をどれだけ傷つけているのだろうと、
そのことが悲しくて泣いたことの方が多かったです。

この映画をみて、そのことを改めて思いました。
なにも両親でなくてもかまわないと思います。
この世の中でたった一人でも、自分を心から愛してくれる人に
めぐり会うことができたとすれば、
それは何事にも代え難い幸せだと思います。
でも、もしそうした人にめぐり会えなかったとしても、
本当の愛は循環するものです。

ただ、自分が受け入れられた経験がなければ、自分が他者を受け入れられない
ということは、決してないと思います。
なぜなら、今生という人生はこの世限りですが、
魂はこれまでも色々な経験をしているはずだからです。
もちろん、「愛される」「受容される」という経験をした人の
ほうが、それはたやすいことかもしれませんが、
そのような経験がなかったとしても、
自分から「愛する」「相手を受容する」ことで、
その循環は起こるかもしれないのです。
たとえ、大人になってからであっても・・・・。

【2008/02/07 18:13】 | 2007年11月インド研修日記 | トラックバック(0) | コメント(0) |
インド研修パート2 (30) 〜「質」はキャスト(配役)のようなもの〜
インド研修の続き、ガイドの方のお話の続きです。

「「自分はこういう人間なのだ」という風に、あなたが、自分で自分をデザインして、
決めたわけではありません。内気で無口な人でも、活発で外交的な人でも、
あなたがそうあろうと、自分をデザインしたわけではなく、自然がそのように、
あなたをデザインしたのです。」

ガイドの方のこのお話を聞いたとき、私は、SMAPの「世界に一つだけの花」を
思い出しました。もちろん、自分に固着しすぎてしまうことは、周囲との分離意識を
強くしてしまうことにも繋がりかねないですが、自分の質を知らず、それを大切に
できないということは、自分を受け入れられていないということだと思いました。
自然は、私たちの人間の世界を本当に客観的に見せてくれていると思います。
その土地に根付く、草、木、花、四季によっても移り変わっていきます。
もし、このバランスが崩れたら、人間にも動物にも大きく影響していくでしょう。
「質」というのは、この地球上の中でそれぞれに与えられた、
配役のようなものだと思います。
何度生まれ変わりがあったとしても、もう、この、今生きている「○○ ○○」という、
あなたを、生を終えてもう一度演じることは不可能です。
私も、もう二度と「りえこ」にはなれません。
そう思うと、不器用でも、おっとりしていても、逆にせっかちで短気でも、
今の自分をいとおしく思えませんか?

もし、大自然が、私たち人間のように、自分の立場やエゴばかりを主張して、
他の植物を排除しようとしたら、生態系が崩れ、結局、自分たちもその影響で淘汰されて
しまいます。彼らはそれを本能的に知っていて、体現しているのです。
私たちにも自然の植物たちと同じ記憶が残っています。
ですから、他者と対立したり、エゴが独り歩きしてしまったあとは、
むなしさや罪悪感や、自己嫌悪に陥るのです。

私たちは人生の中で、決して一人芝居をしているわけではありません。
根底で、深く深く繋がりあっている、身近な人たちとともに、
人生という、大自然と同じ「舞台」を創造していっているのです。
普通、演劇や舞台やドラマには、主役がありますが、
人生という舞台は、一人一人がその主役であり、
いつでも、また、脇役にでもなります。
そうして、主役であっても、脇役であっても、それにこだわることなく、
互いの質を引き立て合いながら、舞台を創造していっている・・・
人間関係とはそういうものだと、私は思います。

ガイドの方のお話はこう続きました。

「自分の中の質を「傲慢だ」「怖がりだ」「あまのじゃくだ」とカルキ・バカヴァンに
相談した人たちは、バカヴァンから「そうですか。では、あなたの胸の前に
「私は傲慢です」という看板をぶら下げて歩きなさい。」と言われたそうです。
バカヴァンにとって、そんな質自体、その人の善悪を決めるものではない
ということをお見通しだからこそ、そのように言われたのです。
バカヴァンはさらにその人に「そのままで幸せでいられれば、
そのままを受け入れていれば、何の問題もないのだよ。」と言われました。

自分の質に気付いていない人たちもいます。また、気づいていて、
戦っている人たちもいます。どちらの人たちも苦しんでいます。
平安とは、自分自身の内側の質を分かった上で、受け入れている状態です。
それがまた、『愛』でもあります。」

ガイドの方のお話のように、自分の中で自分の質を「善悪」で判断するのでなく、
大自然と繋がって、それぞれが役割分担をして、自然という舞台を支え合っている
植物たちのように、たとえ毒があっても、自分の質を受け入れ、役を受け入れて、
穏やかな気持ちで過ごせ、変わらない日常にでも、小さな出来事にでも、
自然と感謝ができる気持ちになっていけていることを感じられたとき、
私たちは、本当に幸せだと心から感じると思います。
そしてそんな幸せは持続していくものです。

それが「愛」であって、それが周囲にどんな教えを説くことよりも、
どんなに相手を説得しようと、必死になることよりも、
いい影響として、波及していくものだと、私は心からそう思います。

今回の最後に、私の中のプレゼンス(内なる聖なる存在)からの言葉の贈り物です。
ぜひ、みなさんとシェアしたいと思います。


〜他者の心に響く一番の贈り物は、あなた自身がいつも幸せでいることです。〜
                           
【2008/02/05 11:35】 | 2007年11月インド研修日記 | トラックバック(0) | コメント(0) |
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プレマ動物ナチュラル・ケア・クリニックのりえこ先生のブログです。

プロフィール

プレマリエ

Author:プレマリエ
ホリスティック(ナチュラル)・ケア主体の動物クリニックを、獣医師の夫と共に営んでいます。私は動物の心・魂からのメッセージを、ご家族にカウンセリングを交えてお伝えする、アニマル・コミュニケーターをしています。また、2005年に南インドで研修を受け、魂の前進・解放を促すエネルギー・ワーク「ワンネス・ディクシャ」のインストラクターになり、セミナーも開催しています。人と動物の種別を超えた絆、人や動物たちが本当に幸せになるために、魂的な前進をしていくために、私たちが、どのように生きていくことを自覚していけばよいのかなども、お話ししていきます。どうぞよろしくお願いします。

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